明日できることは明日でいいのです!

カサンドラ症候群でも幸せになりたい

カサンドラと自覚するまで

2022年6月から休職して、1ヶ月以上破滅していたけど

夏の間にだいぶ回復して

9月から以前もお世話になった医療リワークプログラムに通うようになりました。

順調だったか?というと・・・・意外な事実が判明したかもです。

時系列でいきますね。


『多少』の揺り戻しがありつつも、9月中はまぁまぁ精力的に過ごせました。

しかし、10月に入った頃から

巨大すぎるドンヨリーヌザッパーンが来てしまいまして

10月下旬にはだんだんと体調が悪いというか、

いい時と悪い時の差が激しく、繰り返す頻度が多くなってきて

まさに乱高下って感じ。

そうはいっても

電車の人身事故が相次ぐ日なんて
私だけじゃないんだろうなぁって思ったり、

だんだん冬が近づいてきて、日が短くなって、
ウインターブルーっていうか。

そういう時もあるよね
って、とにかくその日を乗り切ろうとしてたけど


朝から疲れ切って外に出られない日があったり

心理系の勉強がひどくつまらなく感じたり

とにかく体調が悪かったり(頭痛や下痢や腹痛)

号泣したり・・・

11月に入ったら、またほとんど家から出られない状態になってしまった。

 


そうなった原因が1つ、はっきりとあってね、


実は、私の夫、アスペルガー症候群かもしれない・・・

 

 

これ、確か11月あたまに

今回リワークでお世話になっている心理士に初めて言われました。

 

 

works.litalico.jp


(詳しいことは上記リンクほか、専門家が監修しているサイト等をご参照ください。
ここではアスペルガー症候群という言い方に統一させていただきます)

 

もちろん未診断で、本人はまったく気づいてなくて、夫48歳。


ウソでしょう? って思うけど、

思い返してみると、すごくあてはまってる。


何よりも彼は4人兄弟の末っ子なので
子どもの時は・・・というよりも、私と結婚するまでは
自分で困る前に、大人の助けの手がたくさんあったんだろうなぁって思う。

だから困りごとらしい困りごとは、
「正当な理由っぽい理由を言い訳にして転職を繰り返すこと」と「お金の使い方」だったんだろうな
って納得。


わかりやすいエピソードは私の出産前後の話。

トンデモ1
陣痛中の妻に「もう疲れたから休憩さして」と言い放ったこと。

夫にしてみたら、疲れたのは事実でしょうね。

何時間も付き添うのは確かに大変ではないと言ったらウソになるかもだけど、
一番大変なのって誰?
あなたは付き添ってるだけで痛くもかゆくもないよね?
目の前の奥さんのがよっぽど休憩させて欲しいと思ってるんですけど?


そして出産して1ヶ月も経たないうちに、

トンデモ2
仕事が休みの日は子どもをお風呂に入れるのはやってくれたけど、
彼がやるのは「入れる」だけで
着替えのセット、服を脱がす(暴れる)、お風呂上がったあとおへその消毒、服を着せる、ミルクを作る→飲ませるなどの関連項目があるのに、それは知らんぷりで、私1人の時より大変さが増えてる。

それに対しての文句を言ったら
「はぁ~・・・やっぱり子供つくらないほうがよかったのかな」

これも、本音なのかもしれない。
子ども産んでから、誰でも1回くらいは思ったことがあるかもしれないね。

でも、
子どもの目の前で、産後0ヶ月の奥さんに対して、言うことじゃないよね?

じゃあ何かい?すでに生まれているこの子を殺せってことなの?

 

他にもトンデモエピソードは挙げたらキリがないくらいで

 

自分が体調悪ければ育児は免除になると思っているところとか、

 

都合が悪くなると黙り込むか逃げるか聞いてないふりをするか、究極には怒鳴り、
普通に会話をするという選択肢が存在しない。

 

外面は良い(ムカツク)

 

私が真剣な話(子育ての話)をしている時でも、常に手いたずらをしながら聞いている

転職を繰り返す


優先道路への謎のこだわり

 

ドコモへの謎のこだわり

 

喫煙への謎のこだわり(私は喘息であやうく殺されかけたこととか)


などなど。

 

なにかが音を立てて、すべて辻褄が合うような気がした。

 

私は、自分だけが原因でなったうつ病なわけではなくて、カサンドラ症候群だったんだ

だから、

どんなに自分が薬飲んだって、

自分でどんなに心理学(認知行動療法とか)を勉強したって

大モトの原因が変わらなければ、何も変わらないんだ・・・。

 

一方で、私はADHDのような気質があるっぽいということもわかっているので

学生の頃は「個性だね」で済んだ問題も、

大人になったら人間関係がうまくいかないという形で残り、

うつ病もきっと二次障害なんだろうな、って思った(こっちが先に思った)

不注意型だと思われます。女性に多いらしいね?


でも、そんな私も親になり

自分が不注意だとわかっていたから
自分のせいで子どもがいなくなったり、迷子になったり、事故死したり、人様に大きな迷惑をかけるなどの
悪いことが起こるのでは?という恐怖がつきまとっていました。


だから、

幼稚園バスの事故があった時も

震災も、

本当に心が痛かった。

そりゃあ病むわ。

その恐怖と付き合いながら、それでもほとんど1人で3人の子どもをなんとか育ててきたので

その結果、体も心もすぐに疲れてしまうという今が完成したわけよ。


ほとんど1人で、ってのは

夫はサービス業だったんで
土日祝日、正月GWお盆はワンオペだったってのもあるけど

夫は、私たち家族と一緒に過ごしたくないみたいねって感じた。
自分のペースを乱されるのが相当イヤみたいだよ。

 

転職して初めて、GWがカレンダー通りに休みになった時は、毎日文句ばっかり言って過ごしてたさ。

お盆もそうなるのがわかってたから、
就職に有利になるという寝言(後述)をほざいて
大型二種免許を取得する合宿にわざわざ出かけていきました。

お盆、高いのにな・・・

そして家族とは過ごしたくないくせに、自分のお姉さんとは過ごしたいから
終わってもまっすぐ家に帰らずにお姉さんの家に一泊してきたさ。

 

寝言を…ってのは、

最初に就職したのは、運転とはほとんど関係ない仕事だった。
それでもまぁそのうちやるようになるかも?

と思いつつも、1年半くらい後に全然違う会社の送迎をするようになったけど
(二種免許はなくてもできるもの)
3~4ヶ月であっさりイヤになってやめましたよ。

まぁ、性格からして二種免許には向いてないと思ってたけどね。

タクシーとか路線バスの運転手さんの苦悩を思うと
そんなお気楽なものじゃないよってホントに思う。

(かといって、私が向いてないよと言ってしまうと
まるでそこだけ切り取ったかのように、責任転嫁されるので、もうお好きにどうぞ…)

 

・・・で、自分の旦那がこういう宇宙人だと

そのパートナーのが病んでしまう現象が、カサンドラ症候群というわけ。

 

h-navi.jp

 

 

うわー・・・私のうつ歴12年の苦しみはこれだったのか

 

もう旦那と結婚してまもなく23年経つんだけど・・・


カサンドラって名前は知ってたけど、

 

まさか私が?

 

・・・え?じゃあ、私が病んでいたこの12年間、どうして誰も気づかなかったの?

 

気づくチャンス、いくらでもあったよね?


これが私がカサンドラ症候群を自覚した時のエピソードです。

この破滅が終わったら・・・

死亡フラグみたいになってますけど(笑)


私の社会復帰の課題についての話。


うつ病と診断されてからすでに約12年が経過していた。

 

よくなったり、悪くなったりを繰り返しながらも

働くことができる時もあれば、

ひどく消耗することもあり、

この時点で2回目の休職を余儀なくなれたところ

 

この数ヶ月で、「うつ病だけじゃないのかもしれない」そう思うようになった。

 

大人の発達障害ってよく話題になっていて、

聞いたことはあったけど、詳しくは知らなかった。

 

初めてよく知ったのは「Shrink~精神科医ヨワイ~」ってマンガを読んだ時だった。

 


あれ・・・?

私ももしかして発達障害? って思った。


空気が読めないとよく言われる

けど、自分では何を悪く言われているのかわからない


どうやら、自分の考える普通と、相手の考える普通がずいぶん違うようだ・・・


聴覚が過敏でうるさい環境で集中するのが難しい

知能に遅れは特にないので、大人になるまで生きづらいながらも来てしまった

セルフチェックでもあてはまることは多かった。


そして、

破滅初日にF氏から言われた

「そんなんじゃどこに行っても同じことだよ。

まわりとうまくやっていけないよ」

って言葉が、ずっと頭の中をリフレインしていた。

 

別に、ふざけて仕事をしているつもりは一切ない。

自分に悪いところがあれば直そうと必死に努力をしていた。

 

けれども、

ちっともうまくいかず、結局自分がメンタルを病んでしまう・・・

これ、本当にただのうつ病


破滅開始後に2回目にメンクリにかかった時、

自分なりに今回の原因は?みたいなことを聞かれて

「私はもしかして発達障害ですか?」

と言った。

自分の考え方や物事のとらえ方のクセは、もちろんあるけど

それ以外にもっと根本的な原因があるのでは?と思った。

 

そしたら、

とりあえず次回に、幼稚園や小学校時代の通知表など、小さい時の所見が書かれているものを持ってきて

と言われた。


小学校の通知表「あゆみ」は手元にあったので

小・中・高を全部出してみた。


もう、自分で笑った。


小1 教科書を忘れる、落とし物が多い、話を最後まで聞かずに始めて間違える

って書かれていることは、相当頻度が多かったのだと思います。


小2 おおらかでありましょう。忘れ物が多い、作業はすばやいが丁寧さが足りない

小3 理解力思考力はあるが集中力に欠けて力を発揮できていない、感情的になる、人の話を聞かない

小4 言葉遣い、思いやり、足りないよー、係の仕事は気が向いた時だけやってるよ、

小5 期限の良い時と悪い時の差がありすぎる、授業に集中してないよ、計画的にやろうね、

小6 話し合いを大切にしてね、周囲に不愉快な感じを与える言動はとらないでね、

 

医者によると、小学校低学年くらいの時は、比較的書かれることが多いらしんだけど

たいてい中学年くらいになると落ち着いてくるらしいです。

私はそうではありませんでしたね。


続く中学でも

友人に思いやりを

能力はあるのに十分に発揮できていない

などと書かれていました。


高校も見せましたが、高校は併願校に進学したので学力は上のほうで当然、

先生の所見はあまり書かれていませんでした。

 

これらを踏まえて、

心理検査を2種類やる、と言われました。

(ちなみに健康保険が効きました)

 

その結果は、

ADHD傾向はあるが、はっきりそうですとは言えない状況。

衝動性が強ければ抑える薬もあるが…と言われたけど

「これ以上、薬を増やしたくない」という意思を伝えると

医者は少し不機嫌になった気がした。

 

そして、今後、どうしていきたいのか?を考えた。


私は障害者手帳を取得しようかな・・と思いました。


手帳を取得すると障害者になるけど、

それを外に出すかどうかは任意であること、

持っているとメリットばっかりあるし・・・

 

じゃあ、仕事をどうするのか?

この時点では辞めたわけではないが、

今後は障害者枠で働くのもいいかなと思った。


出世がないとか言われるようなデメリットも

私もしょせん若者ではないおばさんだし、今までも最低時給に毛が生えたような金額で働いてたから

あんまり変わらないかも(笑)

 

自分の特性をまわりに伝えたうえで働く

・・・というか、

もうそうしないと限界だなと思った。


1回目の休職から復帰した時に

K氏よりも上の人たちはもちろん、

現場責任者であるF氏も、知ってはいたけど、

一緒に働く現場のお姉さんたちは知らなかったし

F氏は現場を把握してなかったし・・・

 

うつ病をオープンにするってことは

雇ってもらえない、とか、クビになる、とかを想像していました。

だから言わないでいた・・・といってもウソではない。


しかし実際のところ、どうやら違うようだ。

その人がどんな人間か、は、話してみたり、仕事ぶりを見てもらえたらわかる。

うつ病を隠すことで自分もまわりも苦しいし

まわりは「言ってくれればよかったのに」と思っていると思う。


言えば良かったなと今は思ってるけど、

どこかで「察してよ」って思ってしまっていたのと、

やはり言い方がわからなかったんですよね・・・

次こそは、自分の状態をしっかりと開示して…というのは早い段階から思っていました。


でも、同じ会社に戻るかどうかは、正直わかんないや。

というのも、

「休職が半年間延長になった」という連絡をしたら(最初は1ヶ月とかで診断書をもらっていたので)

 

「今後どうしたいと思っているの?復帰したいの?やめるの?」

って聞かれたから。


は?それを考えるための休職なんじゃないの?

 

それをうつ病で破滅中の人に聞いちゃう?


事務的な話になっちゃうけど、
私が入社したのは実はここではなくて、別の拠点で、
でも前の休職から復帰するときに
違うところへ行きたいと希望して、異動しました。

けど結果的に前の拠点は統廃合でなくなってしまったんだけど。

入社した時に対応してくれた拠点の皆様は本当にいい人だったんだなって思う。

今のは・・・正直ダメだ・・・

ま、事務所ってそういうもんだけどさ。

 


まぁ・・・

12ヶ月までは休職する権利があるのが労働者の権利なので、
(そうは言わないけど)
言いなりになる必要はない。

 

12ヶ月休んでから、復帰できません、辞めます、でも
違法ではないのだ。
(迷惑な奴だとは思うけど)


なので、

その話は一旦置いといて。


傷病手当金を受けながら、専業主婦のような生活をしていました。。

家族以外とは、言葉で会話してない。

たまにお店の店員さんと話すくらいかな。

まだまだコロナ禍でもあるし、なかなか人と会いにくいよね。
私語は控えめにとか言われちゃうし。


でも、こんな生活が許されるかというと、

一番許してくれないのは、やはり経済的な問題。


何しろ、子どもは3人
しかも私立文系大学生(下宿)、私立高校生、そんで中学生と
エンジェル係数がとんでもない家計だからです。


それでいて、
実は旦那は定職には就いていないという
なんとも恐ろしい状況。


冷静に考えるとすごい状態だよね(笑)
うん・・・意外となんとかなるんだよ、なるようになるんだよ。


なので

少しは踏ん張りが効くので、今はこれでいいとしても

ずっと働かないでいるわけにもいかないのだよ。


この夏が終わったら学費の支払いもあって

きっとそこで一気に現実を叩きつけられるね(笑)


前と違う会社かどうか、

正社員ではないと思うが、パートにしても
扶養から出る程度にするのか、扶養におさまる程度にするのか

その辺は予定は未定だけど、

外で働くのにトレーニングは必要だとは思っています。


また医療リワークに通うことになるかなって思う。

そのことは主治医にも伝えてあって、

じゃあいつから? 的な話になってる。


リワークに問い合わせしようと思ったけど、ちょうどお盆休みに入ってしまった。

だから、
このお盆休みが明けたら
現実と向き合わないといけないんだよな・・・と。

私にとって社会復帰は、

この辺が課題になりそうだと思いました。

これが2022年7~8月のできごと。
(全然追い付かないなぁ・・・)

 

破滅の終わりまで・・・

破滅9日目

ずっと、再発(=働けなくなる状態)ではないと

どこかで思いたかった、認めたくなかったが、もう限界だった。


かかりつけのメンクリへ、急遽予約を入れて緊急受診した。

 

うまく話せる自信がなかったので、

事前にノートに伝えるべきこと、伝えたいことをびっしり書き出した。

 

不眠が出始めたのは、3月下旬から時々だし、

4月にはわりといつも、5月には眠り方を忘れたと思ったこと

頭痛が頻発し、片頭痛と言われて薬を飲み始めたが結果的にそれがよくなかったと思うこと

胃が痛くて、毎日下痢もしていること

今は腸が動くことすら痛くて何も食べられないこと・・・

 


ここでも号泣した。

 

薬を3種類追加することになった。

 

確認しておきたかったことは傷病手当金医師意見書の件。

 

1回目の休職時に、1年6ヶ月を満了していた。


前回とは別の内容として書いてもらうことはできるか?

 

結果的にOKだと言われた。


というのも

実際に職場復帰していたし、薬の量も最小限になっていたので

一度、ほとんど治った状態で再発防止・・・くらいまで落ち着いたが今回再発した、

という内容で書いてくれるとのこと。


やはり経済的な部分はどうしても考えちゃう。

 

けど、これで少し安心して

破滅していることができる(日本語がおかしい)

 

メンクリから帰宅後

「お母さんはうつ病で、今すごく具合が悪い」

と子どもたち(下2人)に、本格的には初めて告げた。


自分でできることは自分でやってほしい と言ったら

まずはその場で山になっていたペットボトルを片付け始めたので

感動してちょっと泣いた。

 

言ってはいけない

わかってもらえない

と思い込んでいたのは自分のほうだったんだ。


家族であっても、言わないと伝わらないし

言っていいんだよ

と思ったら胸が熱くなった。


ついでに、子どもの成長を感じたのも言うまでもなく・・・。

 

たくさん泣いてスッキリしたのか、

ものすごい久しぶりに、この日は自然と眠気が来た。

 

薬が増えたせいで、案の定しばらく余計に具合が悪くなってしまったが

まぁ予想していたことだし、許容範囲だと思った。


薬が増えた後って、二日酔いみたいな状態になるよね。

・・・まぁお酒なんて15年くらい飲んでないけど。

 

ただ、翌週には

義父がそろそろ危ないかもと言われて

今だったら、ちょっと私が無理かも・・・と思った。


それでも、自動的に喪服のチェックをしてしまった。

私の喪服は、ここ数年で太ってしまったので昔のはサイズが合うはずもなく

けど、今年の初めくらいに、虫の知らせで買ったほうが良いって気がして

お買いものマラソンかなんかのついでに買ったばっかりだった。


下の子2人は制服があるけど、長男は大学生なので制服はない。

1つ、入学式や就活やインターンシップなど用にと買ったスーツが黒なので

買い足すのは、白いワイシャツと黒ネクタイなどの小物と

私の黒い靴(ぺったんこの)が欲しいなと思って買った。

こういう時、女は冷静で怖いよね(笑)

ちなみに末っ子の嫁です。

 

体調は良くなったり悪くなったりで、

まだ今が底かどうかわからなかったが

 

明け方に家のトイレで迷走神経反射にもなったのもこの頃。

過呼吸になると手足もしびれて

歩くことも起き上がることもできなくなってしまった。


誰も助けに来てくれないので

陣痛を思い出して、息を吸うことは考えずに、とにかく息を吐く、吐く、吐く。

体の中の多すぎる二酸化炭素を追い出したら

手のしびれがだんだん減っていくのがわかった。

 

けど、この時が底だったんだろうなとあとから思った。

その翌週には

だんだんと体調が上向きになってきたと感じる。


少しずつ、できることが増えていき、頭痛や下痢の回数も減っていった。

 

体重の減りも51kgでストップした。

体重だけ見ると、決して痩せているとは言えないが

減り方に注目すると、少し急激に減り過ぎてしんどかった。


とはいえ、

体重って、減るのが嬉しかったりするよね・・・(オイ)

 


危ないと聞かされてから3週間後、

義父が亡くなった。


私は、なんとか葬儀に出られるほど体調はよくなっていたので

待っていてくれて有難いと思った。

コロナ禍のおかげで、家族のみで一日葬になったのも、少し助かった。


葬儀では、化粧が大変なことになるくらいガチ泣きしたけど

泣いてよい場面だったので思いっきり泣いた。

(マスクの予備は必須ですぞ)


泣きすぎて、水分不足で足がつったのにはちょっと笑えた。


義父を見送ってから

「やりたいと思ったことは、やってみたい」

と思うようになった。

 

 

ここまでお読みいただいてありがとうございました。

 

このあたりで2022年7月、約1ヶ月に渡っての破滅は

ようやく一旦終わりとなったと思います。

 

破滅の始まり

破滅といっても、一瞬の出来事ではなく

時間をかけて、

ダラダラとガラガラと崩れていった感じ。

「終わりの始まり」みたいな。

 

なので、ここから破滅が始まります。

 

 

破滅1日目


この日は久しぶりに出勤した。


少しだけ体調がよくなったから…と言いたいが、

その前の週は(第二次抵抗期のせいで)確かに体調が良かったこともあるし、

 

これ以上、連続で休むには諸々のハードルが・・・とか、

 

ちょっとうるさい先輩と交代してもらって半日シフトにしたので

このくらいはやらないと・・・


などなど、

いろんな気持ちで出勤した。

 

結果的に、これがトドメを刺してしまった。

 

まさに、非常ブレーキを手動で解除して、

大丈夫だろう、イケるだろう運転だった。

 

Aの半日業務を終え、F氏に呼び出された

 

まぁ、

結構な期間、休みが続いている人がいたら

事情をきくのは当然のことだと思う。

 

正直、どんな話の流れだったかは思い出せない。


覚えているのは

 

すべてどうでもいいやと号泣したこと。

 

何故こんなことになってしまったんだろう。

 

言われたことは

「そんなんじゃどこに行っても同じことだよ。

まわりとうまくやっていけないよ」


私の考え方や言葉遣いなどは

世間の一般常識とずれているらしいと感じた。

 

なんだかそれが、

「だからお前はダメだ。

生きているだけでムダだ」

と言われているように聞こえてしまった。

 

確実にうつ病だと自覚した。

 

ちなみに、F氏は

私がどんなシフトで働いているか、どんな扱いを受けているのか、

把握していなかった。

もう、この人の下では、無理だなと思った。


この日は、

旦那に職場まで車で迎えに来てもらった。


ほとんど無意識に

ロッカーの私物などをほとんど全部持ち帰った。

車の中でも、ずっと泣いていた。


なぜ、再発させてしまったんだろう?

 

あんなに気をつけていたのに。

 

この先どうしよう。

 

もう外で働ける自信ないや、

 

どうせ何をやってもダメなんだろうな・・・

 

会社に便利な人にはならないつもりだったけど

本人に悟られないように便利な人に育て上げて、こき使う

組織ってもはやマジシャンなの?

 

何故、私は1年半の壁を超えられないのだろうか?


1つの仕事が長続きしなくて、

1年間は過ごせるようになるのだが、1年ちょっとで挫折することが多い。


今回も1年半

 

前回(前の現場)は1年5ヶ月

 

その前の仕事(ブラック食堂)も1年5ヶ月


よくよく考えたら

 

高校に入った時も、

あらたな気持ちで頑張ろうって思っても、

このモチベーションは1年ちょっとで切れた。

 

さらに

中学に入った時も同じだった。

 

破滅2日目

K氏(現場にいないがF氏よりも上の立場の人)

と電話で話した。


F氏の話では、私は今日から休職することになっていたらしい。

自分で覚えていなかったのか、F氏が話を盛っていたのかは不明。


頭が働かなくて、言葉を選べずに

20分くらいも長々と昨日の愚痴を聞いてもらった。


休職するには、ネックなのが就業規則

私は、およそ2年半前~1年半前まで休職している。

休職できる期間は12ヶ月で、この時は満了する勢いだった。


そして同一傷病が再発するor類似事例と思われる状況では休職期間に通算します、と書いてあった。


要するに、

最初の休職と類似事例と判断されたら、ほとんど休職することができない。

(実際には2週間くらい残していたが)

 

しかし

私の場合復帰して1年以上経っているので

これは類似事例ではないし、リバウンド期間でもないとのこと。

診断書があれば12ヶ月は休めるとのこと。

 

今月の、すでに決まっているシフト調整は、

体調悪くて休む人にはやらせられないから

Fにやるように言っとくから

と言ってくれた。

(K氏、神だわ)

 


破滅3日目

こうなると頼みの綱は診断書だ。

神経内科で「片頭痛のため3週間休職」の診断書を書いてもらった。

 

だが、

私はもう、これは片頭痛ではないなと思っていた。

 

明らかに薬物乱用頭痛になっているし、

薬の副作用でモロモロ体調が悪くなっていると自覚したので

そのことは医者に伝えたが

片頭痛だと信じて疑わない医者は、そのうち予防薬が効いてくるだろう~

みたいなことしか言わなかった。

 

申し訳ないけど

診断書さえもらえればいいのです。


この日から、頭痛の薬はすべて飲むのをやめた。

 

本当に吐き気がひどくて、

外ではエチケット袋、家の中では洗面器を持ち歩くほどだった。

 

風呂に入るのも疲れて面倒になり、

普段だったら寝る前に入るところ、できなくて

頑張って昼間に入って、

それで疲れ切ってしまうこともあった。

 


破滅6日目

この日は私の誕生日でもあった。

体調は絶不調で、まだまだ下降し続けていた。


気持ち悪さで固形物が全然食べられず、

子どもたちの希望でくら寿司に行ったが、

1人で茶碗蒸し1個を食べるのが精いっぱいだった。


ろくに食べていないので、

歩くだけでふらふらするし、動悸息切れもする。


何か食べたり飲んだりが気持ち悪くて

消化のために胃腸が動いていることさえ痛いと感じた。

 

破滅7日目

ほとんど食べられない、水分さえとれない日が続き、

1週間で3kgも減ってしまった。


ぐったりして、消化器内科(そこは家から近い)で

さすがに点滴をしてもらった。


針刺すついでに採血もしたが、異常はないとのこと。

そこの先生にすら

精神科で相談するようにと言われた。

ちなみに、その先生にも「それは片頭痛じゃないと思う」と言われた。


お腹の痛みも、内科的な異常ではないので

抗不安薬が効く領域なんじゃないかな、と言われた。


もう、限界・・・。

破滅へのカウントダウン

2022年の春はプライベートはひそかに怒涛だったのは前回触れた通り。

ストレスマグニチュードは高めと自覚していたので
自分では気をつけていたつもりだった。

そうは言っても、仕事は通常通りにこなしていたけど・・・

 

GW中はカレンダー通りに休みはあったので

少しはゆっくりできた・・・と言いたいが

天気も体調もよくなくて、近所の買い物以外はほとんど家に引きこもっていた。

 

頭痛がとにかくよく起こり、閃輝暗点からの頭痛が週1~2回の頻度で現れたし、

この頃は、早すぎる梅雨?みたいな感じに天気も悪くて

何をやるにも必死だった。


頭痛か下痢、もしくはその両方が毎日起きていたが

それでも5月の2週目までは休みなく出勤した。

 

 

破滅まであと3週間

神経内科片頭痛との診断を受けてから、仕事を休みがちになった。


幸い、Cの日は1人業務ではないので

代わりを探さずに「休みます」の一言だけで済むのが助かった。

Aの業務の日は、なんとか代わりを探すか、頑張って出勤した。

 

1週間以上連続で休まなければ診断書は不要と知っていたし、

もともとパートなので、出勤ではない日があるのも助かった。

 

さらに、

傷病手当の関係上、

まず最初に3日間の待機期間を完成させないといけないので

まずそこを考えてしまった。


お金のことを真っ先に考えないといけないのは、辛いけど大事なことだよね。

 

破滅まであと2週間

毎日を「なんとかやりとげた」

この言葉が合う日々だった。

普通の生活をしてるだけのはずなのに。

 

買い物行くくらいが「やりとげる」って表現は

冷静に考えるとおかしいけど。


この週は本来週4だったが

2日出勤して、2回欠勤して…だった。

 

お腹の調子はずっと悪くて、

失神まではしなかったが、迷走神経反射っぽいものも起きていた。

(そんな記憶はなかったが、記録に書いてあった)

 

そんな頃、「休み希望が多すぎる」と言われてモヤモヤした。

勤務のシフトは、月毎に決まる。

「休み希望は月3日までなんだよ?みんな家庭があるのに…」的なことを言われたけど

それがもともとしっかり決まっているルールなら、今まで1年以上働いてきたのに何故初耳?だし

「みんな」って言葉に、私は勤務がAとCの2箇所だから、正直、不満に思った。


Aのみだと前月10日までに休み希望を出して、

15日くらいにはシフトが決まる。


なので、

日の指定はないが、来月の適当な時期にこの予定を入れよう~

ってことは、決まった後に組むことができるほどの余裕がある。

 

しかし、

私はCのシフトが出るのが毎月25日とか、それより遅い時もあって

しかも決まる頃には、

やっぱりこの日は出られませんとは、もう言えない状態になっている。

 

だったら、

最初から少しでも休みが欲しい可能性がある日は希望を出すようにしとくしかなくない?

と思うようになった。


私だって、一応3児の母なんだけど?

しかもまだまだ現役学生たちだよ?(先輩方は子どもはいても、ほぼ社会人の皆様)

私の扱いひどくない?


せめて自分は大切にしてあげよう

自分で守ってあげよう

だから、この件で、自分意見を言い返すことはしなかったけど、


というか、言われたその場では

『なぜ?どうして?今、悲しい気持ちになるのはなんで?』

と思うだけで、具体的に何がどうとは自分でわらかず、

なんとかそ泣かずにその場を済ませて

あとから頭を整理してみると、『こうだったのか』と納得する

っていう状態だった。


言われて傷ついたことは、自分で自分を慰めてあげた。

この辺は

破滅前の最後の悪あがきだったと思う。

 

あとになって冷静に考えたら、「私はシフトが2箇所なので」という説明をすれば良かったと思う。

冷静さを失っていたのと、

「それぐらいわかるでしょ?」

という気持ちもあったんだと思う。

 


破滅まであと10日

眠り方が思い出せなくなった。

夜に布団に入っても、そのまま何時間も経ってしまう。

1日が終わるのがイヤで、明日が来るのもイヤだ。

 

どうしてこうなったのか、勝手に涙が出た

横になっていると頭痛がマシになり

起き上がったり歩いたりするとひどく頭痛がする。

だから頓服を飲む。

結局、毎日飲む。

そんな生活を続けたら、胃が痛くてどうしようもなくなった。

去年胃カメラをした消化器内科(近所)にもかかった。

年齢的に胆石では?と疑われたが、エコーで異常はなかった。

胃カメラは10月にやったばっかりなので、

ストレスが原因でしょう定期。

 

具体的に

何が、ひっかかっているのか?を考えてみた。


出てくるのはCの仕事に対する不満なのだが、それをもっと具体的に表すと?


仕事の分母がわからないし、目的もわからなくなっていたと思った。


つまり仕事の全体量がわからないし、私はなぜ、Cの業務をやっているのか?

 

例えて言うなら山の中で

いくら地図を持っていても現在地がわからない迷子と同じだし、

そもそも私はどこを目指していたんでしたっけ?

って状態。

 

Cには、4月になって2人入ってきた。

じゃあ、私って必要?

私が要る目的は?


F氏は、C全体での残業時間でしか見ていない。

Cのメンバーの残業時間が減ってない、

だから人員がもっと必要なんだわと、人員を増やすだけ。


そうすると、席がなくなり

屋根裏部屋みたいなところで作業をすることになった。

そこはパソコンしかないので、コピー機やハンコなど必要なたびに降りてきて

事務職なのに、仕事中に5000歩も歩かされてヘトヘトになったこともあった。

 

なのに、

Cで働くお局様たちは

そんな風に働らかされている私への労いは全くなく、

残業を減らす努力もしていないように見えた。


残業に限らず、起きている問題を解決するためには

現状を深堀して、分析して、何ができるか、何をやめるか

って考える必要があると思うんだけど、

やってないよね?

私はお手伝いの人なので、そういうことは言えないけど。

 

なんかもう手伝いたくねーな・・・

モチベーション? なにそれ? おいしいの?

・・・じゃあ今の仕事やめる?

やめてどうする?

同じことの繰り返しじゃない?

逃げるみたいでヤダ。

そんなことは自分が一番よくわかってる。

 

 

リワークで習ったことを思い出して

「この人」をどうにかできないならば、

自分でコントロールできないからジタバタしなくていい。


お金のために割り切る、


かわいそうな人だなと思うことにする、


「階段の上り下り疲れました」それは事実なので言ってもよいと思う。

誰のせいとも言ってないし、この仕事がイヤだとも言ってない。


ちょうといい無責任感を持つこと

健康を保てる限度

何事も0か100ではないよ。

最重要はAを無人にしないこと。

私じゃなくても、誰でもいいし、Cより優先して当然のこと。

 

こんなことを思っていた。

間違いではないけど、だいぶ状況が悪い時には、そういうのを根性論と言うのでは・・・?

 

 

破滅まであと7日

Aで働くほかのメンバー4人のうち最年長姉さんが

私の欠勤が続いていることを一緒に考えてくれた。

といっても基本的にLINEでのやりとり。

 

私と同じように、

Cは後回しで良い、Aを無人にしないことが重要と考えてくれていた。

 

なので、

他のメンバーに協力を求めようとした。


しかし他の先輩に

「休みが長期化する理由が理解できません」

と言われて、ひどく傷ついた。


テメーに何がわかるんだよ、偉そうに、独裁者か?

テメーの病院じゃあねえだろ?

お前も雇われてる身だろ?


…と思ったけど

もちろん言えるわけもなく。


どうして理解してくれないんだろう と涙が出た。

けど、

相手を変えることはできない、

変えようとしてもエネルギーの無駄、


本心には思ってもいない

へりくだった定型文を送ってお詫びしておいた。

 

あとから考えると

この頃の私はまわりに全く気配りができていなかったと思う。


でも、その当時は、

とにかくこれ以上、自分が壊れないように、

大きく破滅しないように、

とばかり考えていた。

 

そうなった時点で、すべての行動にストップをかけることが

できていれば

また違っていたのかもしれない。


この週では、体の調子は一旦上昇傾向にあった。

ちょっと遠くへの買い物に行けたり、

パソコン用メガネを作りに行ったり(これは店員さんと会話をしたりしないといけないので、ハードルの高い行為だと思う)

電車に難なく乗ることもできた。

人と会うことも苦ではなかった。

 

だから、少しのお休みをもらったことで

大きく崩れることはなく、

持ち直したんだろう、

とこの時は思った。

 

 

しかし、これが

うつの波の第二次抵抗期だったんだろうな。


第二次抵抗期とは、

最初にストレスにおそわれてから、少し経つと

ストレスに抵抗を示す時期となり心身の不調が一時的に軽くなる時期のこと。

 

この時期を、治ったんだ!と騙されてしまうので、

第三次疲弊期に突入してしまうプロセスが一般的なうつ病の流れ


と、リワークで習ったのに・・・、

知ってたのに・・・・、

 

ホントに天才詐欺師かなにかですか?ってくらい、

見事に騙されていました。

 

業務内容の変化とプライベートの変化

年が明けて2022年となる頃

残念ながら、

「Bの仕事は、あなたには簡単すぎるから、もっと難しい仕事をお願いしたい」

と言われてしまった。

 

それって嬉しいのか悲しいのか、だよね。

 

新しい仕事はC(仮称)

 

もちろんメリット・デメリットはすぐに確認しました。

受けるデメリットもね

 

実は

以前、1回目の休職に追い込まれた時とほとんど同じ仕事なので

また病んでしまう可能性が自分でもわかったから。

 

お手伝いなので、やること・やらないことを確認し、

よく考えたうえで引き受けました

 

とはいえ、私のところに話が来た時点では

それはイヤですとは言えない状況。

まぁ会社ってそんなもんだよね(笑)

 

Cは本当に人手不足だった。

私はパートだし、本来のAの仕事もあるので

Cには週2~3回しか来ない。

 

それなのに、

この仕事はこないだ来た時のままになってる

なんてことも、いつも。


なのでとりあえずは、質より量だった。


もちろん質がどうでもいいわけではないが、

多少間違っていたとしも、とにかく量をこなしてほしい、的な。

 

これもやってみたらまぁまぁ楽しかった。


目に見えて量が減るし、


手伝いだからきつい仕事からも外されているけど、


組織全体のことがわかって楽しいし、

顔が広くなるのも嬉しい。

 

今まで知らなかったことを知れて、

知識が増えていくことは楽しいし嬉しい。(←要注意ポイント)

 

ただ、ほかのメンバーの働き方はどうか・・・という部分があり


私語が多くて手が進んでない、

常勤は残業が当たり前で、常勤なのに残業できない人は要らないと言い放つ。

残業が多いと上から指摘されているのに

どうも減らす気がなさそうに見える・・・。

 

さらに、

プライベートで動きがあった。

この年は、長男が高校3年生。

 

何しろ、私も旦那も大学には行っていないので

すべてが未知の領域。


でも、わからないと丸投げすると、

それは作戦負けを意味する

 

わからないながらも、情報を集めて

どんな作戦だったら勝てそうか?考えて、対策して、実行する。

 

ちょうどクラスターが起きた2021年夏の前後くらいで、

志望校を決めるために東奔西走し、(受験方法は総合型選抜で)

9月には1校目に出願したが、一次選考で不合格となった。

11月に2校目に出願し、12月に試験、

年末に合格通知をもらうことができた。

 

安心したけれど、親としてはこれからが本番。

なんといっても4年間諭吉がヒラヒラし続けるから。

 

それなりの対策はしてきたつもりだけど、

やはり目の当たりにすると焦りがないと言ったらウソになる。

 

年が明けたら、アパートを探し始めて

そこはさすが元転勤族。

なかなか楽しんで過ごすことができた。

 


長男にとっては、高校生活は想像とまったく違うものになっただろうなと思った。

高1の終わり頃にコロナが蔓延し、進級試験が中止になったのに喜んでいたと思ったら

それからずっと制限の中で卒業まで迎えると思わなかっただろうな。

修学旅行すら中止になってしまったしね。


子どもが大きくなって感慨深い気持ちと、

コロナのせいで普通の青春時代を送れなかった気の毒な気持ちで、

忙しい感情だった。

 


・・・その感情に浸る間もなく、

卒業式の翌日には引っ越し。

 

引っ越しは、レンタカーでワンボックスを借りて

旦那、私、長男の3人で行った。

 

正直、今でも長男が一番かわいいと思っているので

淋しくて泣いてしまうかなと思ったが、


さらにその次の日には、

長男が使っていた部屋を長女に、

長女が使っていた部屋を次男に、という

家庭内引っ越し作業もある。

 

泣いてる暇はない。

確かに、忙しくしすぎた。

 

もう少し、自分の感情を大切にしてあげれば良かったと

あとから思う。

 

でも、

私はお母さんだから。

 

まとめると、この春に

長男、高校卒業、引っ越し

次男、小学校卒業

長男、大学入学

次男、中学入学。

 

まぁ当然のように忙しい日々が続く。

それに、これからお金もかかることだし、

いつも通り仕事をすればいいだけ。

 

めいっぱい頑張るとは言わない、

だってそのために正社員でなくなったんだし・・・。

 

体調に変化が起きはじめたのは、4月に入ったくらいからだった。


4月の頭には59kgあった体重が

5月末には54kg前後になっていた。

(59kgは個人的に多すぎだとは思うが…)

 

まずは、眠れない。


スマートウォッチで睡眠管理しているのだが、

点数にも表れるほど。


なかなか寝付けない、明け方や夜中に目が覚めてその後眠れない

といったことが起き始めた。

 

頭痛も頻度が増えた。

もともと天候ちょっとした変化で頭痛が起きやすかったけど

目の前にチカチカギザギザしたものが見える頻度も増えていった。

 

そして

食べられない。だからどんどん痩せる。

毎日下痢する。

 

あとから思うと、もはや完璧なストレスサイン

 

頭痛は、

片頭痛だろうと思い、神経内科にかかった。

初診で頭部CTを撮ったほうが良いと思ったので。

 

もちろん異常はなかったので、

やはり片頭痛でしょうとのことで

カルシウム拮抗薬(片頭痛発作予防薬)と、頓服でゾーミックを飲み始めた。

 

しかし結果的にこれが良くなかったんだと思う。

 

吐き気が毎日ひどくて、

それでも電車通勤をしなければいけないので

実はここだけの話、エチケット袋を持ち歩いていた。

 

頭痛も全然治まらずに、ゾーミック(頓服)をほぼ毎日飲むような状態になってしまった。

 

そんなことをすれば、もちろん当然のように

体はみるみるボロボロになっていき

ゆっくりとドミノが倒れるように・・・。

 

復職してからの1年

これまでに、うつの対策やらリワークで学んだことなどをさんざん書きましたが、

結果的に、1年半で再発しました。


ここで言う再発というのは、イコール休職 と考えていただいて構いません。

うつとは、もう10年以上のお付き合いで、

私の中ではもう完全に治ることはないと思ってるくらい。


けど、うつを持ちながらも、働くことはできると思っていましたが、

再びドンヨリーヌに支配されるようになってしまい、2022年6月より再休職となりました。


どうしてそうなってしまったのか・・・

 

正直、自分でも触れたくない部分ですが

振り返ることで、気づくことや原因もわかってくるかな、と思ったので

2回目の休職エピソードとして振り返っていきますね。

 

 

2020年、コロナ禍真っ最中でしたが

6月から11月まで半年間、リワークに通いました。

 

そして、2020年12月に同じ会社だけど、それまでとは違う現場にパートとして復帰しました。

 

そこを、今後わかりやすくするためにAとします。

(A以外にも同じ施設内に、同じ会社の委託業務はいくつかあります)

Aで働く、私と同じ立場の人は全部で5人、

全員パート主婦で、扶養内で働く、私より年上の女性でした。

(私は扶養外)

5人もいますが、通常は午前は2人、午後は1人で業務するものです。

 

・・・やはりどこへ行っても人間関係には苦労しますね。

 

私より年上女性、ってことは

正直いって「元祖昭和女」なワケですよ。


ま、こればっかりは仕方ないけどね。


相手を選ぶことはできない、

相手をどうにかすることはできない、

 

苦しい中で、変えられることは何か?

 

ま、自分の考え方、気の持ち方だろうね。

 

Aでの仕事を始めてようやく1ヶ月経った頃

私は仕事でミスをしてしまいました。

 

すごく責められたし、

すごく落ち込んだし、

もう立ち直れないともその時は思った。

 

 

けど、そこはさすがにリワーク卒業直後。

 

「自分がいけない」

ということは、一旦置いといて、

「何が」いけなかったのか?

を冷静に考えてみた。

 

その結果、自分のせいだけではなく、いろいろと、仕組みが悪いとか、この書き方が悪い、といったことに気づいたの。

 

もちろん、自分1人の力で、すべて改善することはできないので

気づいた中で自分にできることは・・・って考えて

 

その結果、私は仕事を覚えることをやめました。

 

覚えること、というか「暗記すること」をやめたの。

 

よく考えたら、テストじゃあるまいし、

何も見ずに仕事しなきゃいけないなんて決まりはないよね?

 

だったら、その都度チェックリストを指差呼称ように仕事したらどうよ?

 

(それを当たり前にやっている職種の方、今さらごめんなさい。)

 

求められているのは、

「何も見なくても仕事できる私」ではなく、「ミスのない仕事」なのです。

 

なので、

この仕事方法は、Aで仕事をしている限りはずっと継続していました。

Aは特に毎日の流れがほぼ決まっているので、この方法は特に合っていました。

 

こんな仕事ぶりで、半年後にはようやく1人業務も任せてもらえるようになりました。

 

 

1人だとその場で間違いを教えてくれる人もいないので

私で大丈夫なのか?

 

不安もあったけど、そういう時は現場全体を俯瞰してみて、

 

現場は回っているのでよしとしよう

 

私の失敗やミスのせいで現場が大混乱や大ダメージは起きていない。

 

小さな失敗もあるけど、人間だもん、いつでも完璧でいる必要はないよ

と自分に声をかけてあげました。

 

おかげで、まぁまぁ平和な日々が過ぎていきました。

 

 

職場復帰して8ヶ月ほど経った頃

現場責任者 F氏(年上女性)に呼び出された。


Aは5人もいて正直、人が余っている。

人手の足りない部署も手伝ってくれないか?

というもの。

 

この時は、B(仮称)を手伝うという話だった。


なのでこの時も即答はせずに

メリットデメリットをよく考えて、不安なことは質問をし

現場見学もさせてもらったうえで

やりますと言いました。

 


ぶっちゃけ、Bは思いっきり、いわゆる接客だ。

サービス業出身の私にとっては得意分野で好きな分野。

 

不安がありつつも、最初の2回は先輩と一緒に研修がてら一緒にやって

流れ覚えていこうよー

そんなに難しい仕事じゃないしさー

ってことで。


・・・・しかし、

ウソのようなホントの話。


私がBの初日に、クラスターが発生した。

これが2021年夏の話。


その日はとにかく頭を下げて、

「今後どうなるんだ?」と詰め寄られても、


「私たちにもわからないんです。急に今日決まったばかりで・・・」と答えるしかなく、

今後の対応はみんなで試行錯誤していった。

おかげで、自分の会社以外の職員たちとも少し仲良くなれて、顔も少し広くなった。

詰め寄られた、と言ったが、大半の人は理解を示してくれて

「こんな大変な時にありがとうね」などの言葉がけをいただいて救われた。

 

しかし、

クラスターが広がっていく様子には、終末期な気分を感じたのも事実。


私は医師や看護師ではないので患者を直接みたわけではないけど

状況はわかってしまうところには居たので

今まで「ただの、流行しているもの」だったコロナが、一気に身近なものとなった。

(しかし、身近なものとなったあとは、得体の知れない恐怖ではなくなったのも事実)

 

もともとの部署であったAは、逆に、暇すぎて死にそうになった。

人間は忙しすぎてもダメだけど、暇すぎてもダメなんだなとつくづく思った。

 

8月末頃にはなんとか終息し、少しずつ日常を取り戻していった。

あとから振り返ると、

この8月は、やはりストレスマグニチュードがそれなりのものだったんだと思う。

9~10月頃には毎日のように頭痛がして、イブプロフェンを毎日飲んだ結果

大量の血便が出てしまった。

さすがに、よからぬことを考えた。

 

けど、仕事休んでまでは病院には行かなかった。


休みの日に消化器内科クリニックに行って、胃カメラ、大腸カメラもやった。

でも異常はなかった。


(鎮痛剤による薬剤性の出血性腸炎だったんだろう、しかし診た時にはもう治ってた?という結論となった)

10月になると、クラスターの影響は完全終息とのことで、

Bは通常業務となった。

 

案の定、大忙しで、

1日(5時間)で300人相手に受付することもあった。


忙しくて大変だったが、充実していたし楽しいとも思えた。

やっぱり人と話すのは好きだなと思った。

 

気づいたら12月になり、復帰して1年が経っていた

Bでは、年末年始も働くが

パートなので給料の割り増しはない。

それはあらかじめ代休をとれば、休日に出勤させても違法ではない、とかいう法律があるらしい。

さすがにそこにはちょっと不満があったけど、

その不満は、当たり前のように年末年始が休みになるAのメンバーに対してだったのかもしれない。

せめて
「年末年始も出勤ご苦労さま」
くらいの一言があっても良かったのにな・・・とは思えた。